感じよう

お久しぶりです。
7/17(土)の朝に成田に帰国。そして、21日(水)から新しい会社での生活が始まりました。1週間ちょっと前まではインドにいたんですねぇw


前職とは扱う道具も環境も異なり、まだまだまだまだ仕事などと呼べるものは出来ず、ホントに右も左もわからない新入社員です。早く「あ〜、今日も仕事した!」って思いながらビールを飲めるようになりたいね。




しばらくインドに行っていた話をすると時々聞かれるのが、「インドで何してたの?」という質問。
これに答えるのって、中々難しいんだよね。敢えて言うなら「インドの空気を吸って、インドを感じて来た」っていう答え方が一番近い気もします。
「あー、またわけわかんないこと言ってるよ。。」という溜息が聞こえてきそうw


確かに、こういうことをした、ということを具体的に言うことは出来る。
Jaisalmerで地平線を眺めたりキャメルサファリに出かけたりしたし、Agraでタージマハルを見たし、Varanasiのガンガーでかるーーく沐浴(膝までw)したし、EloraやAjantaで荘厳な石窟や壁画を見てきた。数々の世界遺産を見てきたし、大都会にも行ったし田舎にも行った。
でもなんか違うんだよね…。


「旅をする」ということは、普段は見たり聞いたり感じたりすることの出来ない非日常の世界に足を踏み入れ、普段接している人々とは違うセグメントの人々と交わり、そこで自分が何を感じるのかを知ること。
であれば、具体的に何をした、というのは目的ではなく手段でしかない。というか、むしろ何もしなくてもいい。ただ、その街を歩き、食堂でご飯食べて、そこにいる人(店員やバスの車掌や物乞い客引き…)と交わり、夜になったら宿で寝る。その世界で「普通」に生活する、ただそれだけが、新鮮だったりするんだよね。別に真新しいことはしなくとも。でも、「旅」をしたことなくて「旅行≒リゾートで遊ぶor有名な遺跡や建物を見る」というイメージの人とはその辺の認識に隔たりがある気がするんだな。


よく出来た旅行記は、さもそこに行ったような気分にさせてくれる。でも、決して行ったわけじゃない。やっぱり自分の体でその場所に行き、自分の目で見て耳で聞いて体感して始めて感じることがあるんだよね。そういう意味で、大学を半年休学してアメリカに旅に出たある学生のブログの最後のエントリは、非常に共感できる秀逸な文章だ。


旅において重要なのは何をしたかではなく、何を感じたか。
だと思いますね。
そういえば、インドで出会った旅人との話もそんな類のものが多かった気がするなぁ。「ドコドコは人がみんな親切(逆にウザイ)」とか「ドコドコの景色のナニナニが美しい」とか、行った場所で何を見て誰と交わってどう感じたか、というね。


そして、それはきっと人生という旅においてもそうなんじゃないかなぁ。。
「幸せは、掴むものではなく感じるもの」


じゃ。