まだ読み始めだけど・・・『自分のアタマで考えよう』

自分のアタマで考えよう

自分のアタマで考えよう


まだ読み始めだけど、思い出したことがあったので忘れないうちに書いておきます。


この本の序章は以下の見出し。
「知っている」と「考える」はまったく別モノ


何を当たり前のことを…と思われる方も多いでしょう。
見出しだけ見ればそうだと思います。
でも、振り返ってみると「自分のアタマで考え」ずに、知識(つまり多くの場合、別の誰かが考えたこと)に頼ることのなんと多いことか。。


過去のこんな出来事がフラッシュバックしました。





予備校時代、物理の講義のこと。
僕はわりと好きだったその先生が、問題の解説を終えてこう言いました。


「どうでしたか、難しかったですか?
 解けなかった人は、なぜ解けなかったのでしょう。
 それはこの問題を知らなかったからです。
 解き方を知ったあなた達は、次は解ける。」


その時の僕はこう思いました。
「そうか。受験勉強って、知っている問題を増やしていくことなんだな。」






数学や物理は、考える力を養う訓練だと思っていました。
高校レベルの数学や大学レベルの物理なんて、日常生活ではほとんど必要ないからです。
しかし、誰かが考えて発見した定理や解法を理解して知識とすることと、自分のアタマで考えることは別モノなんだと、この歳になって気付きました。


受験は考える力を試すものではない、寧ろ考えてちゃ効率が悪い。
知識として蓄え、それを可能な限り早く(時には応用して)引き出す能力に秀でた者が強い世界なんだと気付きました。
(勿論皆がそうではないけどね。数学の問題を無理やり解いてあとから、あー公式だったんだ、とかほざく猛者もいる。)


別に受験の形式が悪いと、このことだけで短絡的に言っているわけではありません。
思考するためにはその材料となる知識がいるし、間違った結論を出さないために知識を巧く思考と絡める技術も有用だと思うからです。
しかし、昔ほど重要ではない。
必要な知識は「情報」として、インターネットで得られる時代になったから。
となると今後、例えば働き手として差別化要因となり得るのは、有用な情報を調達する能力と、その情報を元に思考する能力とがまず思い至ると思います。





私事になるけど、自分では「考える」ことが好きだと思っていた。
でも、「理解する」ことが好きだったのかもしれない。
「考える」ことと「理解する」ことも、やっぱ違うよね。


このエントリも、多分、僕が「自分のアタマで考えて」書いたものではないと思います。
自分の昔の体験と結びつけて、この本に書いてあることの受け売り、つまり「他人が考えて出した結論」を書いているに過ぎません。
自分で自分の結論を出すこと。
それがこの本の言う「自分のアタマで考える」ことです。(ここまで読んだ限りでは)


「考える」ことにも方法がある。スキルがある。
だから、しっかりじっくり時間をかけて、考える習慣をつけたい。
情報のあふれる昨今だから、誰かの考えではなく、自分のオリジナルの結論を出すことに拘りたい。
ネット上に溢れる数多の意見の一つに賛同することや、会議の末に上司の出した結論が、必ずしも自分の結論なわけではない。




常に問いかけよう。
それはお前の結論か?



そんじゃー(ねw)。