「当たり前」への感謝と恐怖

あの地震から、明日で一週間が経ちます。
皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
都心ではなかなか「混乱」が続いてるようですが、僕が住んでる片田舎は、まぁ混乱というよりは「戸惑い」って感じでしょうかね。ちょっと慣れないことが続いてみんなフワフワしてる感じです。


今週の月曜から、首都圏で計画停電が始まりましたね。
月曜日はスケジュールをアナウンスしたものの、行われたのはごく一部の地域だったのですが、この東京電力の措置に対して非難している人、怒っている人の気持ちが、正直僕にはよくわからないんですよねー。


発表したのが日曜の夜。実施するのが翌朝から。
まだ対応が進んでない病院、信号、踏切なんかがあることを考えたら、出来るだけ動かそうと考える東電側の判断は感謝し賞賛されても良いくらいだと思うけどね。東電、頑張ってるじゃん、と。
でも、オオカミ少年になっちゃうことを考えたら、停めちゃった方が良かったのかしら。。
最初から停電あるつもりで備えておけば、停電なくてラッキー、て思うけどね。
停電した方が良いことなんてあるのかしら。。
勿論、これは皆さんが節電に努めてくれたお陰ですよ!


こんなことを考えていたら、ちきりんさんが秀逸なエントリを書いていました。
(こんなエントリ書かれたらブログ書く気が消し飛びそうだったけどガムバッテ書いたじょ(´・ω・`)
首都大混乱 by 「計画停電」

私たちは、「計画」されたことがほぼ必ず「実行」されるという、世にも珍しい国に住んでいます。


そーだよなー。。
みんな、一度バングラとかインドに行ってみたらいいよ。
星キレイだぜ。




今回感じたのは、「東京電力や政府に暮らしを握られている」ことではない。
我々が、如何に電気に(東京電力)に依存した暮らしをしているか、ということだ。
「計画性がないな、何やってんだ!」じゃなく、「彼らのお陰で豊かな生活ができてるんだね、ありがとう」と言いたい。


しかし、依存していることの感謝とは別に、依存していることの恐怖も感じる。
当たり前のモノが無くなることの恐怖。
日常が崩れたときに、頼れるモノは自分自身しかいないのだ。
被災した人々は大変だろうが、対応の遅い行政に対して、早く支援しろ物資をよこせと文句を言うようなカッコ悪いことはしたくない。


ビジネス上、サービスを提供する上で目指すのは、お客さんのインフラとなることだ。
「これ無しでは仕事が出来ない、他のサービスには乗り換えられない」とお客さんに思わせることだ。
しかし、その状態が果たして本当にお客さんの為になるのか、疑問をいだいてしまった。
そういうサービスを提供することの責任の大きさもまた、再度実感するし、そして、やっぱそうなりたいなという思いもある。


「便利」が行き届くと弱くなる。
途上国の人々はたくましいよ。自分の力で生きていこうという力強さとエネルギーがある。
自分と自分の大切な人が恙無く生きていけるだけの力と知恵は持っていたい。


原発はまだまだ予断を許さない状況が続いているし、余震も続いている。
東北の方では原発だけではなく火力発電所も止めたらしい。
多くの電機メーカー*1・自動車メーカー*2が工場を停止して、電車が運転本数を絞って、店舗やオフィスが照明や暖房を落としてやっとこさ計画停電で供給がまわっている。
余裕なんて無いよね。


日本の、原子力発電による電力量は全体の約1/4。*3
この状況は暫く続く。
必要なものを切る必要はないし消費を自粛する必要もないけれど、出来る範囲で多少の我慢は必要だろうし、この際、自分の生活スタイルを見直すのもいいかもしれないね(残業減らすように仕事の仕方見直すとかね。。)



じゃ。


P.S. ちきりんさんのエントリで、是非とも見ていただきたいのは、こっちだったりする。
大惨事とミラクル