代替できないもの

もう随分前のことだろうか。
蒟蒻ゼリーを喉につまらせて亡くなる子供がいて訴訟問題になったことがあった。
しかし、毎年のように餅を喉につまらせて亡くなる高齢者がいるらしいが、訴訟になっているという話はきかない。
(オレが知らないだけかも知らないが。。)
蒟蒻ゼリーが一時期店頭から消えたが(この前見かけた)、餅が年末年始に買えなくなることは記憶に無い。
これは、我々の文化において、餅が代替不可能なものだからだ。



2010年、交通事故で5千人近くの方が亡くなった。
年々減ってきているようだが、ピーク時の1970年には16000人以上もの死亡者を出した。*1 *2
それでも自動車を無くそうという声が出てこないのは、我々の生活や経済の発展の為に、自動車が必要不可欠なものであるからだ。



2008年、風呂に溺れて亡くなった方がは4000人以上いたらしい。

家庭内で溺死っていったら風呂だよね?
厚労相の平成21年度「不慮の事故死亡統計」の概況:統計表の第8表を見ても冬に多いからやっぱ風呂。
ただ第9表に顕著の通りやはり高齢者が突出しまくっている。
それでも日本から風呂が亡くならないのは我々の文化的生活に風呂が切り離せないものだからだ。

(しかし、家庭内の不慮の事故で死亡する人数が交通事故で死亡する人数より多いってのは。。。家の中は必ずしも安全ではない。
 てかこの資料じっくり見てったらおもしろそうだなー。)




トラックが人に突っ込もうが、包丁で凶悪事件が起きようが、飛行機が墜落しようが、ダムが決壊しようが、電車に飛び込む人が増えようが、これらは決してなくならない。必要不可欠で代替不可能なものだからだ。



原発
微妙なところだ。
我々の生活の中に、電気エネルギーは欠かせない。
そして現状(勿論3.11以前だ。それ以降のデータは不明。)、日本の供給電力量に対する原子力発電の割合は約1/4。*3
化石燃料による発電量を増やせば原子力発電分を賄えるという話もきく。



原発反対派は安全面ばかりをことさらに強調する。(そして、推進派はコスト面を強調する。)
電気がなくてもちょっと我慢すればなんとかなると思うだろう。
しかし、モノの生産は止まる。
理系大学の研究室に属していた人や新商品の研究・開発に従事している人なら想像出来るだろう。
省エネルギーの技術を開発するのに、膨大なエネルギーを擁して研究・開発を行うのだ。何年も掛けて。
バカデカい機器に膨大なエネルギーを使って僅かな量の素材を作っては細かな計測を行う。この地道な作業の繰り返し。



モノの開発が止まれば経済が止まる。
生活が成り立たなくなる。
ちょっとばかりの我慢じゃ済まなくなる。
普段の生活からは見えないところに、多量のエネルギーが使われている。



直近の安全性だけで言うなら、既述した車や風呂や餅の方が危険ではある。
被爆したからって直ちに死ぬわけでも健康に害があるわけでもないからね。
でも、数十年後、ガンや白血病になるリスクが高まる。
日々の危険に注意することは出来ても、目に見えないものによって数十年後にガンになるリスクに対しては如何ともし難い。
また、一旦事故が起こったときの被害が、時には地球規模に至るほど広範に及ぶ。
これが火力発電所の爆発事故との一番の相違点だ。
そして、テロ。
テロリスト側からしたら下手に細菌兵器を持ち込むよりも、原発にミサイル一発打ち込む方が低リスクで高い効果があるのではなかろうか。



安全性とコスト。
日々必要なものだからこそ、秤にかけざるを得ない。
火力発電においては、CO2排出規制の問題とか不安定な中東情勢とか、他の細々とした要因もあるのだろう。
放射能という、よくわからない未知のものに対する恐れもまた、人の感情に強く反映される。
今、安全性の重みがかつてより急激に増しているのだろう。バブルかもしれない。


(つづく、かも)